2002年5月更新

 
  家康と喜多院(川越市)
  水谷勇三
   

 関ヶ原の合戦後、家康は武蔵の各地で鷹狩りを行った。鷹狩りの前日、家康は決まって喜多院を訪れた。出発の時刻を占ってもらうためである。喜多院の天海僧正は比叡山はもとより各地で修行し、天正16年(1588年)喜多院二十七世住職として川越に入った。  

  「明朝鷹狩りをやる。出発の時刻は何時がよいか。」「巳の刻(午前10時)にござります。」二度三度時刻を占ってもらうと、いつも巳の刻。家康は不審に思い問い質すと、天海は「鷹狩りは戦陣ではござらぬ 。遊びごとには一刻でも家臣を休ませるのが主たるものの態度でござりましょう。」と諫めたという。  

  家康はいたく感激。これ以降、天海は家康の厚い信頼を得るところとなり、喜多院も幕府より伽藍の建設や寺領の寄進をうけ、喜多院隆昌の基を作った。家康の遺骸を日光へ改葬の途中、喜多院に止め、4日間の法要を営み、これが因縁により仙波東照宮が建立された。

 

 
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